先日、近くの神社に古くなったお守りの返納と写真の供養をお願いに行きました。
今回は、供養を通して感じたことを書いています。
モノの供養とは
わたしがお願いした神社では「供養祭」という呼び方でした。
モノへの供養として最初に思い浮かぶのは人形供養でした。
人形以外にも供養を受付しているモノ(写真など)があります。
長年身近にあったけど、ごみとして処分するには気が引ける…といったときにお願いします。
神社に供養をお願いしたいモノを持参し、供養料とモノを神社に納めます。
そして、神社の方がそのモノへの祈祷をささげた後、分別処分をしてくださります。
そのため、わたしが行ったことは、供養料とモノを神社に納めただけでした。
何か儀式へ立ち会って一緒に祈祷して、お焚き上げしていただき神主様からお話をきくというイメージを持っていたのですが、全然違いました。
また、今は条例で神社内でお焚き上げができず、分別処分ということでした。
供養をお願いした理由
今回、わたしが供養をお願いしたモノは、写真とお守り類です。
今必要かどうか・将来必要とする可能性があるかどうか、の2点で考えました。
この2点で考えたところ、写真はもう必要がないどころか早く手放したい、お守り類はすでにお役目を終えているという状況でした。
特に、お守り類は税理士受験どころか中学生の頃に買ったものを持っていたので、返納しないと…と思っていました。
なぜ今お願いしようと思ったのか、というと、これまできちんとモノに向き合わず、向き合って初めて持っている必要がないどころか手放したいと思っていることに気づきました。
税理士として方向性を決めて動いている中で、モノを持つか手放すかといったことも今のうちに決めておきたいと思いました。
写真とお守り以外も持つか手放すかをいろいろ考え、手放すモノはだいたい手放しています。
ほかのモノは処分ができるのですが、どうしても写真やお守りはそのままゴミにしづらく、清め塩を撒いたとしても後ろめたさを感じたため、供養をお願いしました。
また、自分のモノを残す・手放すの判断は自分で決断する訓練にもなる、と片づけ本で読んだ記憶があります。
今までは気づかずにいたモノにも、きちんと向き合うのがちょうど今なのかなという感じです。
手放していないモノもある
ここまで、供養と処分の話でしたが、長年使っていて手放していないモノもあります。
たとえば、税理士関係でいうと、合格科目のテキストと本試験問題は今も持っています。
テキスト類は、改正点と自分の最初の知識との違いをみるために使っています。
最初の知識をテキストで思い出してから、今はこう変わった、と思い出すきっかけになります。
また、本試験問題は自分にとっては思うところがあり、もし解き方や解答が違っていたら人生かわっていた・税理士になれていないのでは…と考えたいときに見返しています。
片付け関連の本だと過去の栄光は捨てるようにという論調のようですが、自分には今も本試験の出来事は捨てずにとっています。
このあたりの手放す・持っておく、の基準もきちんと自分で考えることが大切かなと思います。